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神戸大好き 明日のKOBEを創る会

過去の研修会

第148回研修会

講 師: 田辺眞人先生
演 題: 六甲山を考える
 
 

 

<プロフィール>
田辺眞人(たなべ まこと)昭和22年生まれ。
兵庫高校、関西学院大学卒業。
園田学園女子大学名誉教授・川西市生涯学習短期大学学長。

地域史研究に対して兵庫県文化賞、神戸市文化賞、ロドニー賞、教育功労で文部科学大臣表彰などを受ける。
宝塚市教育委員長やニュージーランド学会副会長など歴任。
ラジオ関西の番組「田辺眞人のまっこと!ラジオ」、NHKテレビの「新・兵庫史を歩く」などに出演。

著・監修書に『神戸の伝説』『ニュージーランドの風土と生活』『目で見る神戸の100年』、共著書に『兵庫県の農村舞台』、『ニュージーランド入門』、『六甲山』、『宝塚市大事典』、『神戸阪神歴史探訪』、『神戸学』、『平清盛と神戸』など多数。

六甲山系は西より東が3倍高い

 今日お話しするテーマは、「六甲山を考える」です。手元にプリントが1枚配られているかと思います。皆さんは日々の生活の中で大なり小なり、六甲山の山並みをご覧になってきたでしょう。六甲山系に含まれる主な15の山の名前、また主な川の名前がプリントにあります。六甲山越えの昔からの交通路は、妙法寺川と高取山の間の谷を登っていくと白川峠、苅藻川の東側の尾根を越えて高尾山を越えていくのを鵯越道(ひよどりごえみち)、あるいは、湊川は上流で石井川と天王寺川に分かれていますが、天王寺川沿いに上がっていくと有馬街道(ありまみち)、そして富士山のような再度山の西側の宇治川沿いに大師道(だいしみち)などがあります。他にも天狗道、徳川道、表六甲ドライブウェイなどがあります。白川峠と鵯越の間の高取山の別名は神撫山(かんなでやま)でして、有馬道と鵯越の間の菊水山の昔の名前は城ガ越といいます。
 六甲山系の一番西端はお鉢を伏せたような形の鉢伏山です。例えば、JRの須磨駅から南の浜に下ります。須磨の海岸から西側にちょうど鉢を伏せたような鉢伏山が見えます。その鉢伏山の東隣は鉄枴山(てっかいざん)です。拐は本当は木へんなのですが、その字は今ほとんど使われておらず、誘拐の「拐」の字を使っている場合が多いです。本当は木へんの字です。意味は分かっておりません。木へんの枴は杖のような武器の名前です。昔中国にこの鉄でできた杖のようなこの武器を振り回した力持ちのお坊さんがいて、そのお坊さんの名前が鉄枴上人ということでしたが、そのお坊さんの名前がこの山につけられた理由はちょっとわかりません。
 その鉄枴山の東側の川は千森川です。この川の谷を隔てて東隣が、山頂部が岩でとがっている山があります。槍ヶ岳のようなので一部の人たちは神戸槍という名でも呼んでいましたが正式な名前は横尾山(よこおさん)です。この麓に横尾の団地があるわけです。この辺りまでが須磨区の山で、一番高い横尾山が海抜311メートルです。六甲山の一番高い所は、931.1メートルで六甲山最高峰と便宜上言っています。古い記録では「大山」と記されています。ただし、記録には振り仮名がないので「おおやま」と読むのか「だいせん」と読むのかわかりません。さて、最高峰が931.1メートルということは、須磨区の最高峰である横尾山は311メートルでしたから、六甲山系は東の方が西の3倍も高いといいます。
 横尾山の東を流れる川は妙法寺川です。ちなみに先ほどの千森川を遡って六甲の山を越える峠は多井畑峠です。離宮公園の西側の谷を登っていくと高倉台のあたりでゴルフの練習場がありますでしょう。あのあたりが昔の多井畑峠なのです。あれを越えたら多井畑に下りるというのが千森川の上流の峠です。これに対して妙法寺川の上流の峠が白川峠です。峠の手前が車村、峠を越えた向こう側が白川村でした。このあたりは人間が出てくるずうっと前には神戸湖という大きな湖がありました。そこで雨が降ると土を運んで川の水が湖に流れ込んでいく。湖の岸辺は微塵のような細かい砂がたまって、それが岩になると石灰岩とか凝灰岩です。その凝灰岩というのはいったん乾いて固まるとカチカチになって、植木にはよくない。ところが雨が降ったら削られて白く濁った水になるので、そんな水の流れている伊川の上流の支流を白川といいます。
 皆さんの中でも白川台から名谷の団地で生活された方は、あの辺りの土は植木によくないのをご存知ではないでしょうか。あの凝灰岩は、昭和の初めころまではビジネスに使われていました。白川の村の人たちは凝灰岩を割って、砕いて磨き砂にして長田や板宿で売っていました。また、その凝灰岩は堆積する過程で木の葉っぱを含みこむとそれが化石になります。白川峠は日本有数の化石採集場所でした。今は住宅地になってしまって原っぱも少なくなりましたが、昔は広い岩の面を少しめくったら全部木の葉っぱが入っていたものです。昔、それを採集に行かれた方があるかもしれません。

古くは「神撫山」という「高取山」

 その妙法寺川の東側は高取山です。高取山は現在はこの字ですが、江戸時代までの地図を見ると鷹取山と記しています。明治の初めに高取山の正面南麓に私立山陽鉄道、後に国に買い取られて国鉄山陽本線になるのですが、その車両工場が作られました。これは昔の山の名前を取って鷹取工場とされました。長田や神戸の人たちは昔から言い伝えをしておりまして、私の母方の母の一族は室町時代から須磨の大手に住んでおりましたが、その曾祖母、私のひいおばあさんで天保年間生まれの人でしたが、その曾祖母に言わせると「おまえ、なんで高取山というか知っているか。大昔にすごい洪水があった。須磨も長田も水の底に沈んでしまった。雨が止んで水がひいた後、山に登っていったら山の上の松の木にタコが一杯引っかかっていた。それで村人は木に登ってタコをとって帰った。それからこの山はタコ取り山というようになった」と言って、これは須磨や長田では昔から言われていた伝説です。でも、長田や須磨が水で浸かっているのに水がひいた後、どこの人が登っていけるのかということで、おかしな話です。
 さて、江戸時代までは鷹取山ですが、さらにさかのぼって室町時代までは神撫(かんなで)山です。今でも県立長田高校の同窓会はこの字を使って神撫会、高取山の西麓にある禅昌寺は神撫山禅昌寺(じんぶさんぜんしょうじ)といっています。ではこの山をなぜ神撫山というかですが、長田の伝説で、大昔、神功皇后が、九州で反乱がおこったから鎮圧に行った。成功してここまで帰ってきてに苅藻川に船を入れたと言われています。そして、船から上がられた。上がった時に一服して、横にあった岩を撫でた。そうしたらその岩が大きくなって山になったというのです。そういう訳で、神功皇后が撫でた山ということで神撫山と言われるようになったということです。
 あるいは、その時に九州から帰ってきた神功皇后は、手に入れた財宝を苅藻川の中流に埋められた。その財宝の中には黄金で出来た船の雛形もあった。神功皇后が宝物を埋めた苅藻川の横の丘、塚を作って金の船を埋めた丘を御船の森と呼んでいます。今も長田に御船通という地名があり、苅藻川をもう少し上流に行って中央幹線の山側の所に御船の森の跡という石碑が今でも立っています。長田はそういう神功皇后の言い伝えが非常に多いです。女性の神功皇后が撫でた岩が大きくなって山になったということですから、これを生殖崇拝という分析をした人もいました。
 ところで、神撫(かんなで)というこの言葉ですが、岡山県にも大阪府にも奈良県にも「かんなびやま」という山があります。日本人は言葉は持っていますが字は持っていないわけです、漢字を借りて神奈備山や甘奈比山と記しています。それらの岡山県と大阪府と奈良県の「かんなび」山はなにかというと、大昔の仏教伝来より前の時代、神祭をした神聖な山、あるいは神様として信仰された山を「かんなびやま」といっています。兵庫県でもきれいな姿の山で上に大きな噴火口がある「かんなべやま」(神鍋山)というのが但馬にあります。あれもおそらく古代の「かんなび」山でしょう。
 そうすると神撫山(かんなでやま)と言っている高取山は「かんなび山」が訛ったのではないか、神様として信仰されたという性格があるのかないのか、とも考えられるのですが、今も証拠があります。みなさんの多くの方が実際には体験されていると思います。長田神社に行って拝殿でお参りする、その拝殿の後ろに本殿があって、もうひとつ北側に楠宮稲荷があります。その楠宮稲荷の方に行こうとしたら、途中の西側に小さい門が作ってあって賽銭箱が置いてあります。高取山遥拝所と書いてあります。今でも高取山を拝む場所があって、賽銭を出す人がいるということは、かなり昔から高取山は崇拝されていた可能性があるわけなんです。そうすると神撫(かんなで)という古い名前はおそらく「かんなび」が訛ってそうなったのだろう。そういう古代の名前が、中世になってわからないようになってからは、山の中に鷹が多く住んでいて、侍の時代には鷹狩なんかしますから、鷹を取りに行ったというようなことから鷹取山という名前に変えられていったのだろうと思われるわけです。

新湊川に合流された「苅藻川」

 その高取山の東麓には苅藻川が流れています。苅藻川も名前から見たら藻を刈ると書きます。長田の苅藻川は六甲山系の南にある神戸の土地では、六甲山地は西の方が低くなっており、しかも和田岬が出っ張っていて神戸の土地で山から海までの距離が一番遠い、平地が広いのは長田の辺りです。東神戸に比べて山の高さが3分の1しかなくて、海までの距離が長いということは平地の傾きがなだらかです。海までは行ってもそんなに急に深くはなっていないから、須磨や駒ヶ林は大きな船は入れません。和田岬の東側の入り江は山が高くて海までの距離が近いから海も深くて港として利用されました。和田岬の西側ではそれはできず、漁船ぐらいしかつけられません。そうすると海の中はなだらかですから潮が引いたら潮干狩りができます。そうすると、今の若い女の人の言葉で言ったら、シーフードサラダの食材が採れるのです。藻を苅るわけで苅藻川です。その苅藻川に明治になって「神戸の街のど真ん中を流れている天井川で、これは交通の妨げだ」と、湊川をこっちに付け替えてからは苅藻川の下流は新湊川と呼ばれるようになりました。新湊川というのは、雪之御所の所から湊川が始まるわけですが、その流れを西向きに付け替えて苅藻川に合流させたわけで、こんな風にして苅藻川は元の名前をとられてしまって、人工の新湊川との合流点から上だけの名前になってしまいました。
 ところが、苅藻川と言われる前、別の名前で呼ばれていた可能性があるんです。記紀が神代とする時代、弥生時代や古墳時代に、農業で穀物を実らせるとき、日本人は根強く霊魂を信じていて「大地の魂が農業を育てている」、その魂のことを「ひ」といっていました。その魂が宿っている山、「ひ」がいい山だから「ひえい」山といったりしているんですよ。「ひえい」の「えい」に仏教界ではありがたそうに難しい「叡」の字を使っておりますけれども、そういうことです。「いい」「悪い」は別の見方で言ったら「善」「悪」もそうですし、「吉」「凶」もそうです。そうしたら、「いい」を「吉」、「ひ」を「日」という字を当てたらどうなるかというと、比叡山の麓にある日吉神社になります。同じことで、いい「ひ」が宿る山ということなのです。
 大昔、農業が盛んだった平地を流れる重要な川、そういう川を農業を支える霊「ひ」の川と呼んだことはよくあることです。スサノオノミコトが高天原から追い出されて、地上に下りてきたときに川の岸を歩いていて、おじいさんとおばあさんが嘆いているのを見て、「娘がヤマタノオロチに人身御供に出される」と聞いた、あの時の川の名前は日本書紀、古事記で「ひ」の川となっています。島根県とか鳥取県のあたりに行くと、「ひかわ」とか「ひのかわ」とかいう川がたくさんあります。播州平野の中心の川は加古川です。この加古川も古い名前はどうも「ひのかわ」といわれていたから、加古川の上流は氷という字を当てて、氷上(ひかみ)郡といっていました。加古川流域の神様を全部集めた丘を日岡(ひおか)と呼んでいます。
 そうすると、神戸の地で一番平地が広いのがこの長田のあたりだとすると、ここを流れる川が農業を支える中心となる川です。苅藻川は古くは「ひのかわ」と呼んでいた痕跡があるでしょう。丸山に檜川町というのがあります。ここは檜という字を当てています。どうも、苅藻川という名前が使われるようになった前の川の名前は、一番上流の支流にだけ残ったと考えられるのです。そういうことを考えると、神戸で農業の稲作が伝わった弥生時代から、長い大きな田があるということで長田と言っているわけです。これを支えたのが苅藻川であり、この土地の神さまが宿る山として高取山が信仰されたのでしょう。

菊水山と湊川神社

 この高取さんの東側、丸い山で上に大きなアンテナが建っている山は城ガ越(じょうがごし)と呼ばれていました。この城(しろ)と関係あるのかはわからないのですが、江戸時代から明治、昭和まで城ガ越と呼ばれていました。この山を神戸駅から見たらちょうど湊川神社の山側に見えます。楠公さんは西暦1336年の湊川の戦で亡くなりました。そうすると、20世紀の1936年が湊川の戦600年になります。ちょうど太平洋戦争の直前で軍国主義が育ってくる時期です。この時に湊川神社に対する信仰を呼び掛けて、神戸駅から見たら湊川神社の向こう側に見える丸い山、この山の木を全部取っ払ったのです。
 そうして南側の面に神戸の小学生が登って行って松の木の苗を一つずつ持って行って、これを楠木正成の紋章、菊水の形に植えたのです。この頃から城ガ越は菊水山と呼ばれるようになりました。だから私が中学校の頃、昭和30年代だとまだ大木は育っておらず、菊水山の南の面は本当に草原みたいでした。そこに松の苗を植えて菊水の紋章を作ったということですが、今はもう全く分からなくなっています。菊水の紋章を若い人は全然知りません。神戸の人はせめて知ってほしいですね。
 この菊水山の西の谷から流れてくる川が石井川、東の谷から流れてくる川が天王谷川です。この二つの川が合流してからが湊川です。元は合流点から南のハーバーランドの所へ流れ込んでいたのですが、先ほどお話したように明治31〜34年の大工事で苅藻川に人工的に合流させられてしまいました。すると、湊川の起点の北側は天王谷川と石井川が自然の堀のようになっています。これは中世の武家の時代には防禦にいい場所です。そこで、今から800年前に平清盛がここに館を作ったわけで、それを雪之御所、平家物語では雪見御所と呼んでいるわけです。そして、今、この天王谷川の谷を有馬街道がさか上っていくわけです。
 六甲の全山縦走路は、昔は菊水山から一度有馬街道まで降りて、道路を渡ってまた東の山に登って行ったのですが、降り登りが大変ですし道路の横断が危ないので吊り橋になり、菊水山から吊り橋を通って有馬街道の上を通っていけるようになりました。この吊り橋のちょっと山手にトンネルがあります。このトンネルを越えた北側で有馬街道には西の方に分かれていったら五葉の方へ行く道があります。この分かれ道の信号の十字路の名前は「水呑(みずのみ)」となっております。有馬街道で六甲の山並みを越えていくとき、ここまでは常に谷川に水があるのです。もうひとつ上がって鈴蘭台の方へ別れていく道、ここの交差点名は二軒茶屋です。水飲みで水を飲まなかった人がこの辺りで水を飲みたくなる、商売になるということで山道の両側に茶店が二軒出来たから二軒茶屋というわけです。これをさらに登っていくと六甲の山並みを越える峠、これが小部峠(おうぶとうげ)です。この峠を越えて北の谷に下りたら喉がカラカラだった旅人にも水がたくさんあります。だから「みずのたに」、「みんのたに」。それに箕谷の字を当てたのです。

高尾山の山越え道が「鵯越」

 この天王谷の東隣は鍋蓋山です。山頂部が割と平らで山頂に大きな岩があって遠望するとちょうど鍋の蓋とつまみのようです。菊水山から東の山は標高が400m以上あります。菊水山は460m、鍋蓋山はそれよりちょっと高いです。高取山は321mですから、長田の北に400mを越える山はありません。ちなみに高取山と、東隣の菊水山の間、少し奥には高尾山があります。この周辺は今鵯越墓園になっています。行かれた方は、広い墓地の真ん中に山があって上に鉄塔が立っています。この山の周辺だけ昔の林が残してあります。これが高尾山です。この高尾山の肩を越える山越えの道が鵯越です。鵯越は南側は夢野から西神戸自動車道と並行して北へ登っていきます。鵯越墓園の南の門あたりで東から来る支道と西から来る支道が合流するのです。本来の道は夢野から尾根を通ってきます。それに対して東は石井町から石井川の谷を登ってきます。そうして神戸電鉄の鵯越駅の西側で鵯越の本道に合流します。この合流点のあたりで、尾根を通る鵯越道と分かれて西の谷に下りて丸山へ行く道もあります。これらが鵯越道の支道で、本道は尾根を通って夢野に降り、3番の市バスが通っているバス道、つまり新開地から夢野2丁目に行って西に曲がって長田に来るバスですが、このバスに熊野町というバス停があります。その西に鵯越町というバス停がある。昔は鵯越小学校前と言っていたんです。
 その二つのバス停の間、バス道の山側に、石垣の上にお寺があります。長福寺という浄土宗のお寺です。この御寺の境内に石のお地蔵さんがあって、言い伝えによると鵯越を越えていく人は旅の安全を守ってもらうためにこのお地蔵さまにお参りするならわしがありました。鵯越小学校があった時、小学校の東側の山から下りてくる道、これを登っていくと前の夢野中学の西側に繋がりますが、この道を昔は鵯越筋と呼んでいるんです。そういうことから見て、鵯越というのは夢野から鵯越の墓園の中を通って、先ほどの高尾の山で峠を越えていくのです。そうすると、鵯越墓園に行ったときに地図をご覧になっていただきたいのですが、鵯越墓地はサツキ地区とか、花の名前で区画割がしてあります。その中に、地蔵院地区というのがあります。高尾山の南側のこの一帯にお地蔵さまを江戸時代から祀ってあったんです。この地蔵が高尾の地蔵と言われて、鵯越道の峠なのです。鵯越道が六甲の山並みを越える場所が高尾の峠です。私が中学校の頃そこを歩いたとき、山の中の峠のお地蔵さんの横に古い松の切株が半分枯れていて、立札が立ててありました。「義経駒つなぎの松」とありました。その松の木の根元、お地蔵さんのお堂の下の所に窪地があって水が湧いているんです。高尾の清水といって、湧水が守られておりました。

空海が2度訪れたので「再度山」

 鍋蓋山の東奥に浮世絵の富士山のような格好の山があって、これが再度山です。再度山は手前の山並みがあるために神戸の街中からは見えません。再度山を見るのにいいのは、ひとつは海に向かって出っ張った和田岬方面、もう一つは埋め立て地のポートアイランドです。ポートアイランドには南北に大きい道が二つあって、西側の道が摩耶山が正面に見えます。東側の道で再度山がきれいに見えると思います。あるいは兵庫の大仏さんの前の道からも手前の山の向こうにちょうど再度山が見えます。もう一つ見えるのがJR神戸駅のプラットフォームです。多くの人がJR神戸駅のプラットフォームは東西に伸びていると思っているのですが、本当は線路は神戸駅前後で90度カーブがあって、プラットフォームは南北に伸びているのです。ここから見たら、ま北の手前の山並みの上に再度山がきれいに見えます。
 言い伝えでは平安時代の初めに空海が中国に行って仏教の勉強をしようと思って、神戸の大輪田泊から船出していった。その船出の前に、港の北にある霊場にのぼって、仏さまに航海の安全と学問成就を祈って中国に行った。行く途中に悪い魔物が出てきて空海が乗った船を転覆させようと風や波を起こすたびに船の横に大きな龍が出現して船を守ってくれた。やがて中国で空海は密教の大きな収穫を得て日本に帰って来る。返ってくる途中でも同じように魔物が船を沈めようとすると大きな龍が船の横を泳いで波や風から船を守ってくれた。大輪田泊に帰った時に、龍は空に上がって北の山の中に姿を消してしまったといいます。空海は出航前に航海の安全と学問成就を祈ったわけですから、その通り無事に中国から帰って来ました。大輪田泊から仏さまにもう一度山に登ってお礼の修行を行った。弘法大師空海が2回登ったから再度山(ふたたびさん)という名前が起こったと伝説しています。
 その北側に小さな盆地があります。そこで空海は出航前、出港後に行を修めました。仏法を修めたということで、盆地には修法ヶ原という呼び名が起こったんだと伝説にいいます。そして、再度山に2度目に登った時に中腹にお寺を建設しました。中国への行き来の航海を守ってくれたのは大きな龍でしたから、再度山大龍寺と名づけられたといいます。
 その再度山の西を流れるのが宇治川です。宇治川は今は大倉山から下は暗渠になっておりますけれども、ハーバーランドの所で海に流れ出ています。遡っていくと元の三越の所から、大倉山の東の谷に入って、神田町、矢部町のあたりから直角に東に曲がります。そして山手の短大の所まで行って北の山に入ります。今、再度山ドライブウェーがありますが、あれは戦後に出来たもので、昔の人々はこの宇治川沿いに再度山まで登っておりました。そうすると、最初にこの道を開いたのは弘法大師だということで、この道のことを今も大師道と呼んでいるわけです。おそらく元は再度山は山頂がとがった険しい山だったと思いますが、室町時代の初めに播磨から出てきて摂津の守護も兼ねた赤松氏が兵庫の港を管理するために船の出入りを眺めるため、頂上を切って平坦地を作りお城を作りました。平らな部分は再度山城跡です。今も大龍寺の北の奥の院から登っていきますと、這って登らないといけない山なのですが、頂上はまっ平らなお城の郭が4面ほど切ってあります。
 山頂から見ると、手前の山で神戸の街は見えません。だけど、兵庫の津が手に取るように見えます。もうひとついいますと、戦国時代の半ば過ぎになると、再度山城では山陽道など陸上交通の様子は見えませんので、枝城のような形で再度山の南東の尾根に別のお城が築かれます。後にこの城は大きく拡大されて、中世の大規模な山城の姿を遺しています。新幹線新神戸駅の北西の、北野町の異人館街と布引滝のある谷との間の尾根の、滝山城跡です。新神戸駅の北西から下りてくる谷あたりに広くついた町名は神戸市中央区城山です。。
 再度山の西の川は宇治川でしたが、東の谷は生田川です。この生田川が平地に出る所の断層の面に布引滝がかかっています。明治のころに外国の人が生田川を登っていったら、この川を右に行ったり左に渡ったりとクロスしないといけない、合計20回もクロスするということでトゥエンティ・クロスと名付けた谷筋があるわけですが、そこを北に登っていくと森林植物園の南東の門の所に出ます。ここで、生田川の谷は直角に曲がって東、摩耶山の裏を六甲牧場の方へ回り込んでいきます。摩耶山は大体海抜700メートルくらいの山ですから、高取山の倍くらい高いです。
 そして、摩耶山の西側の生田川の谷を登っていくと、六甲山北側の村の人たちが内陸部の物品を持って来て、海岸部の人たちもそこまで登っていって交易をしていたのだろうという地名が市ヶ原です。先ほど弘法大師が2回登ったから再度山と言いましたけれども、六甲山沿いの道の中で、宇治川から上っていく道は再度山に登ってからいったん盆地に下りて、もう一度北側の外国人墓地のあたりから山を越えて谷側に抜けます。だから、2回山筋を越えるので再度越えと言ったのが本当だろうと思います。また、弘法大師が仏法を修めたから修法ヶ原(しゅうほうがはら)といいましたけれども、神戸の人間はそんな風には読まず、「しおがはら」と言っています。おそらく、中部地方の真ん中にある塩尻のように、海岸部の物産がここまで運ばれて行って、内陸の物産との交易が市ヶ原のちょっと西で行われていたので、海産物の塩の名をとってストレートに「しおがはら」の方が実際の地名の意味なんだろうと思われます。

「摩耶山」は行者らの修行の山

 生田川の谷から高い摩耶山に登る尾根道が天狗道です。六甲の山は全体が昔から修行の場でした。滝があり岩場があり、仏教伝来の前から山にこもって修行して山の霊気と一体化して山の不思議な力を身に付けたいというのは日本古来の信仰です。誰という名前も残っていませんが、そんな中で、例えば国土統一の時にいろんな人たちが戦ったでしょうが、一人の人物像として日本武尊(ヤマトタケルノミコト)という人を作り上げたように、近畿地方の山岳宗教信仰の場をいろんな人がアルピニストのように登りながら修行のルートを作っていきました。その中で割に知られているのが、役小角(えんのおづぬ)です。役行者(えんのぎょうじゃ)ともいいます。あるいは、奥山の久米仙人です。そんな人たちが、個人に集約されていますけれども、たくさんの人たちがバラバラに行動していたと思います。そういう人たちが山に修行の場を作る。これは仏教が伝わってきても、中世武家社会になっても続いていきました。大峰山にせよ、金剛山にせよ、六甲山でもです。これは麓の人が行をしているわけではありません。大峰山に行くと言っても神戸からもたくさん講というグループを作って行っていましたし、逆に六甲の山でよその人が修行にやってきました。
 山伏さんの姿を想像してください。錫杖(しゃくじょう)を突いて、頭に(ときん)という丸い烏帽子のようなものを付けて、木で作ったなっぷサックのようなもの、これは背中に負うから笈(おい)といいます。そして岩場を歩き、滝に打たれる。麓の人は、たまたま六甲山にのぼって薪を取りに行ったとか、家を建てる壁土を採りに行ったという時に岩場でそういう姿の人がいるわけです。これを見て、その姿から「天狗さんが来てる」と思ったわけです。だから六甲の山の中の、かつて修行の場だったと思われる巨岩に天狗岩という名前がたくさん付いています。観光ガイドブックなどでは、「天狗の鼻のようなでっぱりがあるから天狗岩」などと書いてありますが、六甲の天狗岩で天狗の鼻のようなでっぱりがあるものは全くありません。そこで行をしている人を見て天狗さんが出現したと思ったのです。その天狗さんたちの山の中で行をする、行者銀座とでもいうべき所が摩耶山天上寺と再度山大龍寺を結ぶところでしたから両寺を結ぶ山道を天狗道と呼んでいるわけです。摩耶山は天狗の本拠地と江戸時代は思われていたみたいです。山で修行する人は虫に刺されることもあれば岩場から落ちて傷を作ることもあったでしょう。救急車を呼ぶわけにもいかなかったということは、行者さんたちは割に医療薬学の知識を持っているんです。だからその流れで今でも大峰山に行くと陀羅尼助(だらにすけ)丸と言って丸薬を売っています。六甲山系で行者さんの中心が摩耶山だということになったら、漢方薬で摩耶堂というのがあります。阪本の赤まむしでも、看板は天狗の面だったのです。

参勤交代用の「徳川道」

 そんな摩耶山の南面を流れるのが西郷(にしごう)川です。これに対して摩耶山の東側の谷を流れる杣谷(そまだに)川と表六甲ドライブウエィの上を流れる六甲川が合流して都賀川になります。神戸に六甲川はふたつあるんですね。ひとつはこれで、もう一つは有馬温泉です。鼓ヶ滝から来るのを滝川と、東の最高峰から来る六甲川がねね橋の所で合流して有馬川になります。杣谷川は江戸時代の終わりに公共土木事業が行われて川沿いの道がつけられました。居留地が出来て、北側の大丸と三宮神社の間は西国街道ですから、参勤交代の大名が通ったら揉めると見て、幕府は石屋川の所から篠原を通り、杣谷川を遡らせて、摩耶山の東の肩の杣谷峠を越え、北の生田川を西に下らせて、森林植物園の中を抜けて、鈴蘭台の北部からしあわせの村、白川、伊川谷を通って大蔵谷の宿場まで参勤交代用の新道を作りました。これが徳川道です。
 それが出来た途端に幕府が倒れて、参勤交代なんて通らないままに大雨が降って道が崩れていく。ところが、明治の半ばなら、徳川道が出来て20年ほどですからまだ山中に道が残っていました。居留地の外国人が六甲山に登りだした時にこれを見ていい道だということで、六甲の上にゴルフ場を作ったグルームさんなんかは、居留地から五毛まで行って、杣谷川の徳川道の跡を通って西六甲に上がりました。この杣谷川は摩耶山を登るのにはかなり楽な道です。それでも急で、谷沿いに小さい滝がずうっと連続しています。滝は英語で普通はwaterfallsと言いますが、滝を表す主な言葉は後二つありまして、川が大きくてそこに段が出来てというのはcataracts、杣谷川のように連続した小さな滝をcascadesといいます。これが神戸ではパン屋さんの名になってローマ字読みでカスカードと言っていますけれども、そのcascadeが続く谷なので居留地の外国人は杣谷のことをCascade Valleyと言ったんです。今でも山歩きの地図に載っている場合があります。

石を運び出した「石屋川」

 そんな摩耶山を越えると六甲山の最高峰から西に延びる高台で、ここが六甲山上で観光施設が一番沢山ある六甲銀座ですね。この西六甲の高台の南に流れ出るのが石屋川です。この川の谷筋の断層に、地中の深い所で出来た深成岩が露出しています。江戸時代あるいは安土桃山時代に、これを切り出して麓に運び出しました。田んぼや畑は住宅地には今の時代でも転用できないわけですが、検地が行われて年貢のかかっている田んぼや畑を他の用途には使えないわけです。運び出した石を鳥居にしたり灯篭にしたり橋にしたりするスペースがいるわけです。この川の土手がちょうどよかったものですから、運び出されて石屋さんが仕事場を並べました。それで石屋川と呼ばれるようになりました。
 石屋川の隣は住吉川ですが、この川も白鶴美術館の所で東谷と西谷に分かれます。この東谷をずうっと遡ったら、六甲山の主な山並みの一つ手前に東おたふく山があります。山頂部がススキの群生する草原になっています。東おたふく山の東の谷に下りるとこれが芦屋川です。芦屋川の芦有道路を登っていきますと、東おたふく山登山口のバス停が奥池の一つ手前にあります。その東おたふく山の背後、六甲山の高台の東端は東側、南側、北側はすとんと落ちていてすごく景色がいい独立峰です。ここに昔から行者さんが修行をした場があって、大きな石のお社が置いてあります。お社のことを昔は一般に宝殿と言っています。石の宝殿というのは播州のものが有名ですが、宝殿は普通名詞でお社のことです。石で出来たお社は石の宝殿で、播州では固有名詞化していますけれども、六甲のハイキング地図を見ると六甲最高峰の東に必ず石の宝殿が書いてあります。
 この石の宝殿は南に下ると芦屋川、西に下ると住吉川、東に行ったら仁川、逆瀬川、北側に行ったら船坂川、有馬川といろんな東六甲の川の水源の分水の峰で、その上に石の祠が祀られているから、昔からこの祠は川の上流、水の神様の祠だと信仰されて、東六甲の麓の村人は水不足の時にはここにのぼって雨乞いするんです。花崗岩でできた石の祠なのですが、村によって沢ガニを持って行ってこれにこすり付けるとか、アマガエルを持って行ってこれにこすり付けるというのがあります。そうすると水の神様が住まいを汚されたと怒ってそれを洗うために大雨を降らせるという信仰なのです。現在でも夏、雨がなくて困った時に、どことは言いませんが市役所の水道局の関係者がここに行くんです。もう一つ変わったところでは梅田の曽根崎新地の女性たちがここにお参りに行きます。水の神様が水商売の神様にもなっているわけです。そしてここに祀られている御祭神は菊理媛という女神です。加賀の白山の神様です。言い伝えでは、この石の宝殿の高台から何年かに一度白山が見えると言うのです。信じている人は多くいて、加賀の白山も山岳信仰の場ですから、おそらく白山系の行者さんがやってきて石の宝殿の基礎をこしらえたのでしょう。
 石の宝殿を越えると急速に山は武庫川の谷に下っていきます。その時に、六甲の中央の峰々の線から北と南に山脈は分かれて、北側は大平山、南側は甲山で六甲山地が終わるわけです。その甲山の裏側から、甲山の東側の武庫川へ流れ込むのが仁川です。これに対して、甲山の西側の谷を大阪湾に流れ込むのが夙川(しゅくがわ)です。
 今日お話しした山や川の名前はほとんど皆さんご存知だと思いますけれども、改めてどんな格好でどんな谷や山があるかなど考えてみるのも興味深いと思います。今日のお話の後で、六甲山のハイキング地図でも見ていただいたら立体的に山地が捉えられると思います。


 
     
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